ブライアン・ウィルソン(中編)「Pet Sounds」と「Smile」、そして挫折の物語

『Pet Sounds』をイメージした静かな海辺とサーフボードのイラスト

「Pet Sounds」の代償──弱さまで愛された天才

前編では、サーフィンやホットロッドを歌う若者たちだったビーチ・ボーイズが、『Today!』という傑作にたどり着くまでを書いた。

その頃にはすでに、ブライアン・ウィルソンの関心はヒットチャートの先にあった。

「もっと美しい音楽を作りたい。」

その思いが結実したのが、1966年の『Pet Sounds』である。

このアルバムは、ポップ・ミュージックの歴史を変えた。

しかし同時に、ブライアン自身の人生も大きく変えてしまった。

今回の中編では、『Pet Sounds』から幻の『Smile』、そして長い苦しみの日々までをたどってみたい。


『Pet Sounds』との出会い

私が『Pet Sounds』を初めて聴いたのは大学生の頃だった。

村上春樹のエッセイだったか、小説だったか。「これは名盤だ」と絶賛されているのを読んで、「ふーん、ビーチ・ボーイズね。サーフィンのグループでしょ?」くらいの軽い気持ちでCDを買った。

当時の帯には山下達郎のコメントが載っていたことも覚えている。もっとも本人は、どちらかと言えば初期のロックンロール時代のビーチ・ボーイズがお気に入りらしい。それでも、このアルバムへの敬意は十分に伝わってきた。

家に帰ってCDを再生する。

そして「Wouldn’t It Be Nice」が流れ始めた瞬間、鳥肌が立った。

さらに「God Only Knows」が流れたときには、もう完全に心を奪われていた。

「こんなにも美しい音楽があるのか。」

それまで聴いてきたロックとはまったく違う世界だった。

音が何層にも重なり合い、それでいて軽やかで、透明で、どこか切ない。

何十年経った今でも、あの日の衝撃は忘れられない。


『Smile』という終わらなかった夢

『Pet Sounds』は世界中の音楽家に衝撃を与えた。

なかでも強く刺激を受けたのがビートルズだった。

ブライアンはさらにその先を目指し、『Smile』という壮大な作品に取り組み始める。

「ティーンエイジ・シンフォニー・トゥ・ゴッド」。

そう呼ばれた構想は、当時のポップスの常識をはるかに超えていた。

しかし録音は難航する。

メンバーとの温度差、レコード会社からのプレッシャー、そして自分自身との終わりのない戦い。

その間にビートルズは『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』を完成させた。

『Pet Sounds』に刺激を受けた彼らが、新たな傑作を世に送り出す。

それはブライアンにとって、大きな焦りと重圧になったとも言われている。

完璧を求める人ほど、自分を追い詰めてしまう。

結局、『Smile』は完成しなかった。


ブライアン・ウィルソンの長いトンネル

『Smile』に代わって発売されたのが『Smiley Smile』だった。

録音済みの素材を編集し、小規模なスタジオで録り直した曲を加えて完成させた作品と言われている。

もちろん、このアルバムにも独特の魅力はある。

肩の力が抜けたような浮遊感は、ほかのビーチ・ボーイズ作品にはない味わいだ。

しかし、本来ブライアンが頭の中で鳴らしていた壮大な『Smile』とは、あまりにも違っていた。

この現実が、彼の精神状態をさらに悪化させたとも言われている。

その後のブライアンは、アルコールやドラッグに依存し、長い療養生活へ入っていく。

家に引きこもり、パジャマ姿のまま外を歩き、自宅の砂場で何時間も過ごしたという有名なエピソードも残っている。

繊細だった歌声も、長年の喫煙や飲酒、薬物の影響で少しずつ変わっていった。

「天才が壊れた」と語られることも多い。

でも私は、そうは思わない。

あまりにも繊細で、音楽に対して誠実すぎた人だった。

だからこそ、自分自身を追い詰めてしまったのではないだろうか。


コヨーテのおすすめアルバム

『Pet Sounds』(1966)

ロック史に残る金字塔。

初めて聴くなら、迷わずここから。

♪ Wouldn’t It Be Nice

イントロが鳴った数秒で世界が変わる。私にとっても、ビーチ・ボーイズとの本当の出会いになった一曲だ。

♪ God Only Knows

ポール・マッカートニーが「史上最高のラブソング」と絶賛した名曲。優しく、儚く、美しい。ブライアンの才能が最も自然な形で結晶化した作品だと思う。

♪ Caroline, No

アルバムを静かに締めくくる名曲。若さが失われていく切なさと、ラストの犬の鳴き声や列車の音まで含めて、『Pet Sounds』という作品を象徴している。

『Smiley Smile』(1967)

幻となった『Smile』の面影を残す、不思議な魅力を持ったアルバム。

♪ Good Vibrations

ビーチ・ボーイズ最大の代表曲。何度も録音を重ねて完成したサウンドは、60年近く経った今でも驚くほど斬新だ。

♪Vegetables

一見するとコミカルな曲だが、その奥には『Smile』ならではの実験精神が息づいている。野菜をテーマにしたユーモラスな歌詞と、不思議なコーラスの組み合わせは唯一無二。肩の力が抜けた『Smiley Smile』の魅力を象徴する一曲だ。

『Sunflower』(1970)

長い混乱の時期を経て生まれた、ビーチ・ボーイズ屈指の名盤。メンバー全員の個性が調和しながらも、ブライアンの美しいメロディーセンスは随所に感じられる。

♪ This Whole World

2分にも満たない短い曲なのに、次々と転調していく。にもかかわらず、聴き終えると不思議なくらい自然で爽やかな余韻が残る。ブライアンの作曲家としての才能が凝縮された、まさに小さな傑作だ。

♪ Add Some Music to Your Day

「毎日の暮らしに少し音楽を」。そんなシンプルなメッセージが胸に沁みる。派手さはないが、温かいハーモニーに包まれていると、音楽が人生に寄り添うものだということを改めて感じさせてくれる。

『The Beach Boys Love You』(1977)

全盛期のような緻密さはない。しかし、このアルバムには人間味と温もりがある。

The Night Was So Young

優しく包み込むようなメロディーが印象的なラブソング。円熟したブライアンの魅力を感じられる。

♪ I’ll Bet He’s Nice

シンプルなシンセサイザーの音色の中で、美しいメロディーが静かに輝く隠れた名曲。


完璧ではなかったからこそブライアン・ウィルソン

『Pet Sounds』はブライアン・ウィルソンを音楽史に残る存在にした。

しかし、その代償はあまりにも大きかった。

完璧を求め続けた結果、『Smile』は幻となり、長い苦しみの日々が始まる。

それでも彼は、音楽を完全に手放すことはなかった。

だから私は、ブライアンを「天才」と呼ぶよりも、「弱さまで愛された人」と呼びたい。

完璧ではなかった。

むしろ、とても不器用だった。

だからこそ、あれほど美しいメロディーを書けたのかもしれない。

次回はいよいよ最終回。

長い闘病生活を経て、ソロ・アーティストとして再び歩き始めたブライアン・ウィルソン。その静かな復活の物語を書いてみたい。