静かなる狂気〜ロバート・フリップという終わらない実験

5/16は、Robert Frippの誕生日。

ロックの歴史には「空気が変わった瞬間」がいくつかある。
そのひとつが1969年、In the Court of the Crimson Kingだった。

あのAbbey Roadを1位の座から引き摺り下ろしたという逸話は、単なるレコード売上の話じゃない。
「ビートルズ以後」をどう生きるか。
ロックが“青春のBGM”から、“芸術”や“実験”へ向かう入口だった。

そして、その中心にいたのがギタリストというより「思想家」に近い男、フリップ先生である。

全盛期の初期クリムゾンについては以前、Greg Lakeの回で触れたので、今回は中期以降。


メンバーが何度も崩壊し、そのたびに別の怪物へ変態していった「第二章以降」のクリムゾンと、先生の異常な革新性について書いてみたい。

まず前提として、ロバート・フリップは「ギターヒーロー」ではない。
むしろ、ギターヒーロー文化を嫌っていた節すらある。

速弾きで酔わせるタイプではなく、音の配置、緊張感、間、反復、ノイズ、構築美で聴き手を追い込む。
しかも本人はスーツ姿でほぼ無表情。
ロック界に紛れ込んだ英国の数学教師みたいな男だった。

だが、その静けさの奥にある狂気がすごい。

70年代プログレが肥大化していく中で、多くのバンドは「大作主義」と「様式美」に飲み込まれていった。
だがクリムゾンだけは違った。

フリップ先生は、過去の成功パターンを平気で破壊する。

結果、「同じバンドなのに時代ごとに別物」という異様なキャリアになった。

今日はその中から、中期以降の代表作をいくつか挙げたい。

Larks’ Tongues in Aspic(1973)


中期クリムゾンの扉を開けた問題作。

このアルバムから、クリムゾンは「美しいプログレ」ではなく、「危険なプログレ」へ変貌する。

特にタイトル曲パート1。
静寂、緊張、民族音楽的パーカッション、突然の轟音。
もはやロックというより儀式。

Jamie Muirの存在も大きく、即興性とアヴァンギャルド感が一気に増した。

そして何より、この時代のフリップ先生のギター。
音色が鋭利すぎる。
音が“刺さる”。

後のポストロックやマスロックに繋がる「反復による緊張感」は、この頃すでに完成していた気がする。

Red(1974)


一言で言うと「ヘヴィすぎるプログレ」。

当時のハードロックより重い。
メタル以前なのに、後のオルタナやポストロック、インダストリアルにまで繋がる音をやっている。

特に表題曲「Red」のリフ。
これ、1974年の音とは思えない。

プログレというと技巧派・クラシック志向のイメージが強いが、このアルバムはむしろ「暴力的」だ。
知性と破壊衝動が直結している。

しかも、この作品を完成させた直後にバンド解散。

普通なら「次はこれを発展させよう」となるのに、先生はそこで終わらせる。
毎回、勝ち逃げみたいなことをする。

Exposure(1979)


先生のソロ作品だが、これがまた意味不明なくらい先進的。

Brian Eno、Peter Gabriel、Daryl Hallらが参加し、ニューウェーブ、アンビエント、実験音楽、ポップが混線する。

特にここで重要なのが「Frippertronics」。

テープループを使い、ギターの残響を延々重ねていく手法で、後のアンビエントやポストロックに巨大な影響を与えた。
今ならルーパー1台でできることを、先生はアナログ機材で執念みたいにやっていた。

しかも、本人は割と涼しい顔。

変態ほど静か、という典型。

Discipline(1981)


80年代クリムゾンの最高傑作。

これ、初めて聴くと「本当にキング・クリムゾン?」となる。

ファンク、ミニマル、ポリリズム、ニューウェーブ。
そこへフリップ先生とAdrian Belewのツインギターが絡む。

ギターというより、ほぼ「動く幾何学模様」。

特にタイトル曲「Discipline」は異常。
演奏しているというより、精密機械が自己増殖している感じ。

この時代のクリムゾンは、プログレというより「知的ダンスミュージック」に近い。
Talking Headsやニューウェーブ勢とも地続きだった。

「70年代の遺産」に逃げなかったのが先生のすごさだ。

THRAK(1995)


90年代にまさかの再起動。

しかも“ダブルトリオ編成”。

ギター2人、ベース2人、ドラム2人。

普通なら音が濁る。
だが先生は、これを巨大な立体音響みたいに組み上げた。

ヘヴィネスと複雑性が極まっていて、時代的にはむしろNine Inch Nailsやオルタナ勢に近い空気すらある。

「VROOOM」の圧。
あれはロックというより建築物。

フリップ先生、年齢を重ねても全然“丸く”ならない。

むしろ歳を取るほど変になる。

The ConstruKction of Light(2000)


デジタル時代のクリムゾン。

冷たい。
硬い。
神経質。
なのにグルーヴしている。

特にこの時期の先生は、「人間が演奏する限界」と「機械的反復」の境界に異常な執着を見せる。

その結果、生まれたのが“ヌーヴォーメタルでもプログレでもない何か”。

2000年代以降の変拍子系、マスロック、Djent系の連中が普通にやってることを、かなり先回りしていた。

そして恐ろしいのは、本人が「革新してやろう」という顔をしていないこと。
ただ淡々と、自分の美学を掘り続けている。

そこが先生っぽい。

現在のロバート・フリップ


近年は奥様のToyah Willcoxと一緒に、なぜか陽気なダンス動画を大量投稿している。

若い頃の「近寄りがたい前衛芸術家」感を知っている人ほど混乱する。

だが、あれも含めて先生なのだと思う。

厳格さとユーモア。
理論と脱力。
緊張と悪ふざけ。

クリムゾンの音楽も結局、その両方でできていた。

そして、ここが一番大事なところだが、フリップ先生は「懐メロ化」を拒み続けた人だった。

過去の成功をなぞれば、もっと楽に稼げたはず。
だが先生は、毎回わざわざ難しい方へ行く。

だから今でも、単なる“伝説のギタリスト”で終わっていない。

ロックがまだ未知の領域へ行けると信じていた最後の世代。
その執念みたいなものが、ロバート・フリップという人には残っている気がする。